長崎原爆資料館のサッカーユニフォーム
被爆70年となる2015年より、V・ファーレン長崎とともに平和祈念ユニフォームを発表してきたヒュンメル。夏限定で着用する3rdユニフォームは、サッカーファンやサポーターが折った千羽鶴とともに、長崎原爆資料館に寄贈し、展示されています。今回、中村明俊館長に原爆資料館の役割や平和祈念ユニフォームについて伺いました。
港町長崎に落ちた原子爆弾
鎖国政策が行われていた江戸時代、禁教政策が掲げられたものの、国外との交流窓口となった長崎には、カトリックの信仰が密かに続いた歴史があり、また同時に中国文化の影響も多く受けている。開港以来400年以上の歴史を経て、長崎に暮らす人々は、今も、歴史に育まれた長崎独自の文化に影響を受け、暮らしているという。
1945年8月9日午前11時2分、広島市に続いて長崎市にも原子爆弾が投下され、24万といわれる人口のうち7.4万人が死没。建物の約36%が全焼、または全半壊という凄まじい被害をもたらした。
中村館長は、「こういった歴史的背景のある街に、今から72年前に原子爆弾が投下されたということで、長崎から平和を訴えかけていかなければならない、という気持ちが長崎の人々には強いと思います」と話す。
原爆資料館の役割
72年の時が流れ、被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は平成28年度末で16.4万人余りとなり、過去最少を記録。被爆者の平均年齢は81才を超え、平和を引き継ぐ方法も変わってきた。「今までは被爆者の方々が、自分の経験を踏まえて平和を訴えてこられました。これからは、被爆者の方々がいらっしゃらなくなった時に、代わって若い人たちが平和を訴えていかなくてはならない。その継承、引き継ぎに熱心に取り組んでいます。具体的にいうと、修学旅行の子どもたちがたくさん訪れてくれますので、子どもたちに分かりやすい展示を心がけています」
原爆資料館の展示は、被爆の惨状を正確に伝えている。放射線、熱戦、爆風、火災の被害を科学的に展示。どうして原子爆弾が投下されたのか、という歴史的背景についての説明があり、また、世界の核兵器の現状が常設展示されている。
平成28年度には、68万人が長崎原爆資料館を訪れた。「原爆資料館には、原子爆弾の悲惨さを伝え、二度と核兵器を使ってはならない、というメッセージを世界に送る役割があります。国際情勢を見ると、いろんな意味でまだまだ危ういな、という感情は市民の方も持っていると思います。こうした中で、長崎は広島と世界各地で開催している広島・長崎原爆展や平和首長会議などで協力し、平和のアピール活動を行っています」
平和を考えるきっかけに
原爆資料館には多くの千羽鶴が寄贈されているが、長崎では、街のいたるところで千羽鶴を目にする。千羽鶴を折り、平和を願うというのは、原爆症のため12才で亡くなった佐々木禎子さんが病床で千羽鶴を折り、病気の回復を願ったというエピソードに由来する。
「原爆資料館には、常設の展示以外では、千羽鶴がたくさんあります。皆さんが一緒にできるのは、鶴を折るということだと思います。いろんな人が参加してたくさんの人が鶴を持ってきてくださる。サッカーの皆さんもそうですね。そして、今はその折り鶴の紙を再生して、また鶴を折るということもしています」
V・ファーレン長崎とヒュンメルが寄贈している平和祈念ユニフォームも、平和を願う折り鶴がモチーフになっている。中村館長は、サッカーユニフォームの意味をこう語る。「ユニフォームがひとつあるだけで、原爆資料館に対する関心が広がっていきます。サッカーをされた方々や若い方、著名な方々の関心がこちらに集まってくる。この平和ユニフォームがヨーロッパで発売されて、広がっているという取り組みもそうですね。サッカーユニフォームが、平和を考えるひとつのきっかけになると思います。現在、1Fの入り口に展示してありますが、正式な展示の場所ではなく、それ以外のところで、平和を願う思いがたくさんあることを伝えていきたいと思っています」
長崎原爆資料館について
爆心地を望む丘の上にある長崎原爆資料館には、永遠の11時2分を刻む柱時計や被爆した浦上天主堂の惨状が展示され、原子爆弾の悲惨さや凄惨さを伝えている。
【原爆資料館公式サイト】